私が認知症の方と初めてケアの現場で出会ったのは、今から約40年前、看護学生だった頃です。
実習で受け持たせていただいた患者さんは、入院時には普通に会話ができる方でした。
ところが術後、せん妄のような症状が出現し、「壁に虫が歩いている」と訴えられたのです。
当時はまだ「認知症」ではなく、「痴呆症」と呼ばれていた時代でした。
看護学生だった私は、その変化を前にして、ただ驚くことしかできませんでした。
「人はこんなに急に、おかしくなってしまうのだろうか」
その程度の理解しかできなかったことを、今でも覚えています。
「ただベッドで過ごす」ことへの違和感
その後、看護学校を卒業し、結婚、出産、育児休暇を経て、私は再び看護の現場に戻りました。
再就職したのは、900床規模の、いわゆる老人病院でした。
当時はまだ介護保険制度もなく、高齢者施設も今ほど整っていませんでした。
認知症になった多くの方は、ADLが自立していれば精神科へ、基礎疾患や慢性疾患によりフレイルとなり、ベッド上で過ごすことが多くなった方は内科へ入院されていました。
その頃の認知症の方へのケアは、今とは大きく違っていました。
認知症に対するリハビリも、特別なケアもほとんどありません。
多くの認知症の方は、ただ毎日をベッドの上で過ごしているような状態でした。
当時、私がとても驚いたことがあります。
患者さんのベッドの頭元には、ベッドネームの札が掛けられていました。
そこに記されていた入院年月日を見たとき、「10年前」と書かれている方がいたのです。
それも、お一人ではありませんでした。
その事実は、当時の私にとって大きな衝撃でした。
私にとっての10年前は、中学生の頃です。
「私が中学生だった頃から、この方はずっとここに入院している。
毎日、天井を見て過ごしているのだろうか。
もし自分がそうなったら、私は嫌だな」
正直に言えば、そう思いました。
「どうせボケているから」で終わらせたくなかった
当時の認知症の方への対応には、「おかしな人」「壊れた人」というような見方が、どこかにあったように思います。
何かを訴えても、
「どうせボケているから」
と受け止められない。
その訴えの奥にある不安や寂しさ、痛みや困りごとに、十分に向き合うことも少なかったように思います。
まだ看護師として経験の浅かった私は、そのケアに違和感を抱いていました。
けれど、どうすればよいのかもわかりませんでした。
それでも、何かをしたいと思いました。
あるとき私は、病棟婦長さんに相談しました。
「病院内にある売店に、ADLの自立している認知症の方と一緒にお買い物に行ってもよいでしょうか」
来る日も来る日も、同じ病棟の中で、同じ景色を見て過ごしている方たちに、少しの時間でも病棟を離れる機会をつくりたいと思ったのです。
売店に行く。
商品を見る。
自分の好きなものを選ぶ。
自分で買う。
それは、とても小さなことかもしれません。
けれど、その方にとっては楽しみであり、「自分で選ぶ」という大切な時間になるのではないかと思いました。
そのときの認知症の方々の反応を、私は正直、細かくは覚えていません。
けれど、その「お買い物」を定期的に行っていた記憶があります。
今振り返ると、それは私の中に芽生えた、認知症ケアの原点だったのかもしれません。
認知症だから、何もわからないのではない。
認知症だから、何も選べないのではない。
認知症だから、楽しみが必要ないのではない。
その人には、その人の時間があり、感情があり、選びたいものがあり、暮らしがあります。
当時の私は、まだそれを言葉にすることはできませんでした。
けれど、心のどこかで「このままではいけない」と感じていたのだと思います。
高齢者施設で深まった、認知症ケアへの学び
その後、縁があって、私は老人保健施設で働く機会を得ました。
「老人の保健施設」と聞いても、当時の私は、それがどのような場所なのかよくわかっていませんでした。
それでも、新しい高齢者ケアの現場に飛び込んでみようと思いました。
平成6年頃のことだったと思います。
その老人保健施設は、のちに介護保険制度の制定により、介護老人保健施設と呼ばれるようになります。
そこが、私にとって初めての高齢者施設勤務となりました。
その後、急性期病院での勤務を経て、平成16年に、認知症を専門とする118床の介護老人保健施設に勤務することになりました。
そこで私は、日々、認知症の方々と向き合うことになります。
認知症と一言で言っても、その症状や生活の様子は一人ひとりまったく違います。
不安が強くなる方。
同じことを何度も尋ねる方。
帰宅願望が強くなる方。
怒りや混乱として表現される方。
言葉ではなく、表情や行動で気持ちを伝える方。
日々のケアの中で、私は少しずつ、認知症の症状の背景にあるものを考えるようになりました。
なぜ、この方は何度も同じことを聞くのだろう。
なぜ、帰りたいと訴えるのだろう。
なぜ、怒っているように見えるのだろう。
何に不安を感じているのだろう。
何を伝えようとしているのだろう。
そう考えるようになると、認知症の方の見え方が変わっていきました。
症状だけを見るのではなく、その人を見る。
行動だけを見るのではなく、その背景にある気持ちを考える。
できなくなったことだけを見るのではなく、まだ残されている力や、その人らしさに目を向ける。
それが、認知症ケアにはとても大切だと感じるようになりました。
「困った人」ではなく「困っている人」として見る
私はやがて、新しく入職してくる職員や、実習に来る看護学生たちに、認知症の方をどのように理解してもらえばよいのかを考えるようになりました。
どのように伝えれば、認知症の方を「困った人」としてではなく、「困っている人」として見てもらえるのか。
どのように研修すれば、認知症という病気だけではなく、その人の人生や想いに目を向けてもらえるのか。
そのことを、何度も考えました。
多くの人は、認知症という病気を正しく理解していません。
むしろ、誤解していることが多いと感じます。
看護学生たちも例外ではありませんでした。
教科書に書かれた認知症の症状をそのまま受け止め、「認知症の人はこういう人」と決めつけたまま実習に来ることもありました。
けれど、実際に出会う認知症の方々は、教科書の中の「症状」だけで説明できる存在ではありません。
その方には、長く生きてこられた人生があります。
家族があり、仕事があり、好きだったことがあり、大切にしてきたものがあります。
誇りも、恥ずかしさも、不安も、寂しさも、喜びもあります。
だからこそ私は、一人でも多くの人に「認知症の人を正しく理解すること」を伝えたいと思うようになりました。
研修に込めた想い
最初は、「認知症とは」という研修から始まりました。
そこから何度も何度も内容を見直し、現場での経験を重ねながら、研修の形を変えていきました。
そして今では、
認知症の人の理解を深める 〜認知症の方の笑顔のために〜
というタイトルでお話しするようになりました。
このタイトルには、私の認知症ケアへの想いが込められています。
認知症になることは、ご本人にとっても、ご家族にとっても、残念で、つらく、不安なことかもしれません。
けれど、認知症になったからといって、その人らしさが失われるわけではありません。
認知症になったからといって、幸せに過ごすことができないわけでもありません。
正しい理解と、適切なケアがあれば、認知症の方の表情は変わります。
安心できる関わりがあれば、笑顔が生まれます。
その人の気持ちに寄り添うケアがあれば、穏やかな時間をつくることができます。
私は、認知症の方を「変える」のではなく、認知症の方が安心できる環境や関わりを整えることが、ケアの大切な役割だと思っています。
ケアされる人も、ケアする人も笑顔に
認知症ケアは、ケアされる側だけのためにあるのではありません。
認知症の方を正しく理解できるようになると、ケアする側の不安や戸惑いも少しずつ変わっていきます。
「なぜこの行動をするのだろう」と考えられるようになると、関わり方が変わります。
関わり方が変わると、認知症の方の反応も変わります。
その積み重ねが、ケアする側の喜びや自信にもつながっていきます。
認知症の方も、ケアする人も、共に笑顔になれる。
そんな認知症ケアを広げていきたい。
それが、私が今も認知症について話し続けている理由です。
認知症の方を正しく理解すること。
その人の人生に目を向けること。
症状ではなく、人として出会うこと。
そして、ケアされる側もケアする側も笑顔になれる関わりをつくること。
私はこれからも、認知症の方の笑顔のために、そして認知症ケアに関わるすべての人のために、正しい理解とケアの大切さを伝え続けていきます。



